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たった一人の貴方の為に

作:凍幻



 彼女の顔に、緊張が走る。
 些細なミスも許されないとあっては、いかに慣れた彼女であっても、手が震えかねないと言うものだ。
 動悸を抑え、ゆっくりと右手を降ろし、そして上げる。
 たった数秒にも満たないそれだけのことが、今の彼女には永遠に等しく感じられてしまうのだ。
 更に、その後のことを考えるだけで、今にも失神しかねないほどだった。
 さっき確認したにも係わらず、失敗していたら……
 その恐怖が、頭から拭えない。
 だが、震えている暇はない。
 きっとあの人は、この結果を待ちわびて居ることだろうから。
 これだけは、誰も代わりにしてはくれない。
 いや、誰にもこれは、させられない。
 彼女は、恐る恐るそれに挑んだ。決意と共にした結果は、果たして……
「うん、美味しいっ♪」
 そう言って彼女――魔鈴は、微笑んだ。
 言葉からも分かるとおり、今、彼女がしたのは、料理の味見だ。
 オタマで掬っての、味見。
 いつも職場でやっているとおりの、何てことの無い料理の一工程。
 だが、そこにいくまでの過程は、普段の仕事とは何と違うことか。
 彼女の仕事は、レストランの経営だ。
 それも、只の経営者ではなく、料理人をも兼務している彼女。
 正式な料理人どころか、アルバイトでさえ、只一人として雇っていないのだ。
 一回、彼女の店に行けば、誰だって驚かされるだろう。
 美味い料理の数々、良心的な値段、隅々まで磨き上げられた店内……
 一流、いや、超一流と言っても過言ではないその店が、たった一人で切り盛りされていることは、まさに驚愕に値する。
 しかも、忙しいはずの仕事を楽々とこなすのは、筋骨粒々の男性かと思いきや、たおやかな若い女性なのだ。
 それを可能にしているのは、自分で発掘した中世魔法を、魔鈴が惜しげも無く使っているからだった。
 包丁捌きや火加減の自動化、ウェイター替わりの箒の使用、などなど。
 一見しただけで、ほとんどの作業に魔法が使われているのが分かるだろう。
 それらの指図をすれば、料理については、後は味加減の確認くらいで済むのだ。
 さもなければ、一日に百人以上のオーダーをこなすのは、かなりきついことになるだろう。
 しかし、魔法と言うのは、決して万能では無い。
 一回それを行うたびに、精神力など、しかるべき代償を払わねばならない。
 普通の人なら、数人分をこなすことさえ難しいとあっては、大多数の人は地道に腕を磨くほうを選択するだろう。
 しかも、大多数の人を満足させられる腕前を駆使するとなると、ほとんど絶望的だ。
 幸いにして彼女には、希有なほどの力があった。
 こうやって仕事が終わった後でさえ、もう一回それをこなせるほどの力、だ。
 今の生活になる前は、自分の食事でさえも、こうやって作っていた。
 料理の感覚を忘れない為、自分の腕で作ることもあることはあった。
 新作料理の創作や、暇つぶしで作ることもあった。
 だが、それは本当に稀だった。
 彼女にとっては、魔法を使う方が手軽で、しかも日常的なものになっていたのだ。
 それにも係わらず、彼女は今、自分の二本の腕だけで軽やかに調理をしていた。
 しなければならなかった。
 それを差し上げる相手は、彼女自身で作らなければ、全く意味が無い相手なのだから。
 出来合いのものや、レストランで提供しているようなものでは、全く足りない。
 相手の今までを考えれば、その程度でも満足してくれるかもしれない。
 でもそれは、お互いのためにならないことを、彼女は重々知っていた。
 健全な精神のため、とまではいかなくても、何事も食事は基本。
 明日の活力のため、そして、今夜の活力のため、これからも台所は、二人の為の戦場と化し続けるだろう。
 お客様も大切だが、それよりなにより大切な人のために、彼女はスパイスを手に味を調える。
 そうして、やっと今日の食事が完成した。
 材料も調理も、考え得るあらゆる想いと技術を注ぎ込んで完成させた一品だ。
 魔鈴は満足げに頷くと、直ぐにそれを持っていこうとして、ぴたと止まった。
 最後にすべきことを、今回はしていないことに気付いたのだ。
 出来上がったシチューの上で、誰にも聞こえないよう、そっと呟く。
「……」
 別に聞く人は居ないのだが、それが聞こえたら、台無しになるような気がしてならないのだ。
 それから、ミトンをはめて鍋を持ち、軽やかに歩き出した。
 待っている人のところへ……
 愛する人のところへと……
 たった一人の大切な、あの人だけの為に作ったシチューを携えて、魔鈴はそこへと向かう。
 すると、案の定、お腹を抱えてひもじい様子の彼が目に飛び込んできた。
魔鈴「出来たわよ」
 そう彼女が声を掛ける暇もなく、彼がぱっと顔を上げる。
「おお、待ってたよう。早く食べさせてくれぇ〜〜」
「お待たせしました、貴方♪」
 今回も、とびきりの笑顔で迎えてくれた恋人のため、彼女も同様の笑みで微笑み返す。
 料理は完璧に仕上がったし、彼も自分も、すこぶる快調。
 それに、普段は有能だが野暮な使い魔も、ここには立ち入りを許さないようにしている。
 魔界の一角にある、誰もがうらやましがるほど理想的な、二人きりの食事の場。
 だが、わざわざ言い渡さなくても、誰もここには入ってこれないだろう。
 賢明なものでなくてさえ、見えるはずだ。
 二人の間には、料理だけでは生まれない熱が渦巻きあっているのが。
 敏感でなくてさえ、分かるはずだ。
 誰も近寄れない雰囲気が、今日も今日とて醸し出されているのが。
 よそり終えたお皿を前に、二人のあいさつが重なる。
「「いただきます」」
 そして、互いを思いやりながら、しかし、それでいて遠慮することなく会話が弾んでいく。
 合間を見て、定番の問いが発せられる。
「……美味しい?」
 はにかみながらのその問いに、相手も少し照れて答える。
「言葉に出来ないほど、美味しいよ」
「良かった。貴方に喜んで貰えて、とても嬉しいです」
 これもまた、いつもの言葉が飛び出している。
 しかし両方とも、ルーチンワーク的に受け答えているわけではない。
 それは毎回、愛情篭めた本心であり、そうでなければならないことは、お互いに分かり切っていることだった。
 まあ、不味いことなど無かったし、これからも無いであろうが……
 二人とも、にっこり笑い合うと、食事と会話に戻った。
 どうやら今日の晩ご飯も、とても楽しい時間となったことは、間違いないようだ。
 そしてその後、二人がどうするかも想像に難くないようである。
 今夜もまた、熱気は生み出されて魔界を満たしていこうとするだろう。
 なにせ二人の愛が、熱々のシチューより先に冷めることは、絶対あり得ないであろうから。
 それが証拠に、しばらくして明かりが落とされたにも係わらず、この家の熱気は益々増大して行くばかりである。
 蜜月に蜜月を重ねていく彼らの夜は、こうして今日も更けていくのであった。


―終―



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