自分の部屋だと言うのに、皆本光一はスーツの胸内ポケットから取り出したカードキーを、少々躊躇いながら静かに入り口ドアへ差し込んだ。
最新式セキュリティが組み込まれているため、音は小さいが、しかし一連の手続きの後、期待に反して帰宅者へロック解除を知らしめるための電子音が暗闇に響いてしまう。
いつもならほとんど気にならない音量であるが、今日に限っては、妙に大きいような気がしてならない。
思わず、誰か気付いたものが居やしないかと周囲を見回した皆本は、彼を見ている者が全然居ないことを知り、ふぅ、と安堵の息を吐いたものの、それでもまだ完全には安心出来ないらしく、息を潜めてしばし聞き耳を立てた。
絶対にあいつらが来ているはずだとの確信が、エリート公務員をして、そんな奇妙な行動に駆り立ててしまうのだ。
あいつらとは天使にして悪魔、彼が指揮するエスパーチーム『ザ・チルドレン』の面々である。
チルドレンは、内務省にある特務機関、通称『バベル』に所属する超能力者の中でも最上位の能力を持った、しかも珍しいトリオのチームとして知られているが――
それ以外にも、三人が三人とも弱冠十歳の可愛らしい少女で、更に言えば性格に問題があることでも有名なのは、上官として大いに苦笑してしまうところだ。
しかも彼女らは、彼の半分しか生きていないにもかかわらず、悪知恵は天才と称されたはずの彼の数倍、口の達者さも数倍、ESPパワーに至っては、最強の『超度七』なのである。
能力のせいで家族からも疎外感を味わい、そのために社会適応能力が著しく低いとは聞いていた。
しかし、まさかガキと言っただけで失神させられるほどだとは、皆本は想像だにしていなかった。
何の能力も持たない普通人、皆本がそれ以後もチルドレンを指揮していくために、彼女らの理不尽ないたずらを避ける用心深さが必要となってしまったのは当然であろう。
元々皆本は、ESP研究のためにバベルへ来た只の普通人だったのだ。
指揮官になってほしいとスカウトに来た柏木朧一尉は彼女らの不幸を説き、力になってやって欲しいとも訴えたが、することがガキのお守りと知っていたら同意したかどうか。
また、極悪とも言える性格を事前に知っていたら、どうしていたか。
誘いを受けずにESP研究を続けていればこんな用心は無用なのにな、と自嘲の笑みを浮かべてしまった皆本だが、今更こんなこと考えて何になるんだ、と頭を振って非生産的な思考を少しだけ横へ置くと、観念して静かに中へ入った。
チルドレンの現場運用主任となってから、彼女らの暴走に付き合わされ、幾度死に掛けたことか。
防ぎに行ったはずの爆発に巻き込まれたり、些細な失言で水や壁の中へ叩き込まれたりと、病院の世話になったことは数えきれない。
未だに死んでないことが、奇跡とさえ思えてくる。
それなのに、なぜチルドレンと付き合い続けているのか、答えは皆本自身にも分からなかった。
合宿所よろしく彼女らが自分ちのベッドで勝手に寝ていても、無理やり起こされて朝から食事を作らされても、心を読まれてお仕置きを受けてさえ、未だ付き合いをしているのは、付き合いをやめる際の報復怖さのためなのか、それとも他に何かあるのか――
いくら考えても、分からないものは分からない。
もやもやしたまま真っ暗い玄関と、同じく暗くなっているリビングの横を通り抜け、自分のベッドにも彼女らが居ないことを確認した皆本は、そこでやっと緊張を解いて盛大に溜息を吐いた。
どっと疲れが襲ってくるのは、やっと帰宅出来たと安心したからだけではない。
現場よりチルドレンへの検査回数が多いのはともかくとして、その報告書作成に毎回夜中まで掛かり、また明日もあるというのに今日も深夜になってしまったため、さすがに疲れが蓄積してしまっていたからだ。
彼女たちに横槍を入れられながらなので、チルドレンが帰ったり静かになってくれないと報告書を書き上げられないのが悩ましいところである。
唯一の救いは、子供なので眠る時間が自分より早いだけか。
既に彼女らの就寝予定時間を過ぎているため、今日は静かに眠れるなと思い、ネクタイを外しかけたところで、彼は不意に後ろの気配に気付いた。
――あいつら、やっぱり来てたのか!?
「か、薫……か? それとも葵……?」
彼に手を出すのは、主にサイコキネス能力を持つ赤石薫の役目である。
また、野上葵のテレポーテーション能力でとんでもない場所へ連れて行かれることも度々ある。
なので、この二人の名が先に出てしまったのは、やむを得ないだろう。
だが、ドアの向こうから聞こえてきたのは、意外な声だった。
「皆本さん、ちょっといいかしら?」
答える暇も無く静かにドアが開いて、予想だにしなかった姿が現れる。
「薫ちゃんも葵ちゃんもコタツで眠っちゃったから、風邪ひかないようにベッドまで運ばないと……」
少々眠そうな声を出しながら入ってきたのは、チーム最後の一人、サイコメトリー能力を持つ三宮紫穂だった。
「あ、あぁ、それは構わないけど……」
反射的に頷いてから、はたと皆本は疑問に思った。
「……それは、何で?」
たぶん、みなで彼の帰りを待っていたのだろう。
最初はパジャマに着替えて大人しく待っていたのだが、そのうちに飽き、リビングで脅かそうとでも考え、暗い部屋でじっと待っていて眠ってしまったに違いない。
なので、紫穂がパジャマ姿なのは何となくだが理解出来る。
だが、何故に呼びに来ただけで枕を持ってくる必要があるのか。
おまけにズボンも履いておらず、挙句の果てには着ている上着でさえボタンが外されており、枕がかろうじて幼い肢体を隠している格好となっているのだ。
年が年ならば夜這いに来ているみたいだと、少々後ろめたい気分を味わってしまうではないか。
そんな、何とも悩ましい格好を全く気にしていないのか、とてとてと足取り軽く彼のすぐ傍まで近づいてきた紫穂は、枕を彼のベッドにちょこんと置くと、不思議そうな瞳で皆本を見上げた。
「皆本さん。何で、って何か問題でも?」
「その枕、何でこっちに持ってくるのかなと、そう言ったんだよ。君たちのベッドはあっちの部屋に確保しただろ? まさか、ここで眠る気じゃないんだろうな」
最後の安息まで奪う気かよと皆本は少々暗い気分になってしまったが、目前の少女が『何』なのかを即座に思い出し、慌てて気を引き締めた。
触られたら最後、今の危険な思考など、簡単に読まれてしまう。
気を付けてはいるが、とっさの思考は、なかなか制御しきれるものではないのだ。
皆本の表情が、微かにだがぎょっとしたことで、紫穂の表情もすっと暗くなる。
傍目には分からないほどの変化だったが、家族とチームメイト以外で一番付き合いの深い彼には分かった――分かってしまった。
「す、すまない」
彼が恐れているのは、自分に何かされることではなかったはず。
彼の態度で、彼女たちが健全に成長出来なくなることではなかったのか。
普通人も超能力者も、同じ人間じゃないか。
紫穂を差別してしまうことに、どんな意味があると言うのか――
彼女への恐れがないことを示そうと、皆本がぽんと彼女の頭上に右手を置く。
その手をそっと取った紫穂は、すがるように両手で皆本の手を握り締め直した。
心を無理やり読むのではなく、ただ、相手の真心を汲み取ろうとし、温もりを与え合う。
夜で下がった体温が、ほんのりと上昇していく。
「……怖くないの?」
十分に温まり、もう大丈夫かなと皆本が思った瞬間、微妙に震えながらも、紫穂はいきなりそんな言葉を発した。
まだ不安なのだろうか。
それを受け、皆本は、しゃがんで彼女と目線を同じくすると、優しくこう返してやる。
「君たちは、君たちでしかないさ。何も恐れることなんかない」
「皆本さん……」
紫穂の瞳が僅か潤み、彼女は体全体で皆本へしがみ付いた。
「わっ! し、紫穂。やばいって、こ、これはちょっと……」
僅か十歳だとはいえ、半裸の女性に抱き付かれては、さすがに肉体が反応する危険がある。
子供だ子供だと思い込もうとしても、かえって意識してしまうではないか。
「皆本さん、私……」
何を言い出すんだー、と皆本は紫穂の口を塞ごうとしたが、それを実行する前に背中に冷たいものを感じてしまい、慌てて彼はドアの方を向いた。
「あたしたちに隠れて、何やってるのかなぁ?」
「いたずらは許さへんでぇ」
いつの間に起きたのだろう。
にこやかな笑顔ながら、地獄から聞こえてくるかのような不気味な声を薫と葵が発する。
紫穂同様、可愛らしいパジャマを着てはいるものの、まるで悪魔のような雰囲気を身に纏ってしまっている。
まずいとこ見つかったな、と冷や汗を垂らし声を出せない皆本に代わり、紫穂が彼にしがみ付きながら、それへさらりと答えた。
「だって、皆本さんが……だから……」
しかも語尾の調子を落とすことで詳しい説明を避けるあたり、堂に入った悪女振りである。
突っ込みを入れる暇も無く、ふわりと皆本の体が宙を舞う。
「皆本ぉー!」
「皆本はんのフケツッ!」
紫穂に独占させまいと能力で皆本を壁へ押し込む薫に、その場で顔を赤らめ嫌々と頭を振る葵。
どちらにせよ、深夜に取って欲しい行動ではない。
深夜でないとしても、嬉しくない行動なのだが――
全身に痛みを感じながら、何となく安心を皆本は感じてしまった。
先ほどの、妙な雰囲気に流されず済んだからだ。
心では良かったと思う反面、体が痛みで悲鳴を上げている。
少し後、そろそろ勘弁してやっか、と薫がその能力を抑える。
とたんに、ずるずると皆本の体が床へ滑り落ちていく。
「お、お前ら、僕を殺す気かっ……」
力を振り絞り、やっと出した皆本の抗議を、二人は意に介さなかった。
「なーに言ってんだって。お仕置きなんだから、殺したら意味ねーじゃん」
「せや。紫穂にだけ手ぇ出すって、どーいうこっちゃ? このロリコン」
にやにやと、意地悪い笑みを浮かべている二人を紫穂はじっと見て、それからごく小さく溜息を吐いたが、彼女はそれ以上何もせず、何事も無かったかのようにこう言った。
「二人とも、それくらいで勘弁してやってね。早く枕持って来て一緒に寝ましょう」
お前がそれを言うんかい!
そんな皆本の心の叫びを無視し、それもそーだな、と二人が枕を持ちに部屋を出て行く。
一人残った紫穂に、皆本は少々きつい視線をくれてやった。
「だって……皆本さん……」
が、彼女は俯いてそれしか言おうとしない。
事態の元凶が反省していないのは明らかである。
皆本は、たぶん駄目だろうなと思いつつ、こう諭した。
「だってじゃない。抗しきれなかった僕にも責任はあるけど、誤解を生むような真似は謹んでくれよな」
その、声に含まれる疲れた響きを感じ取り、ハッと紫穂は顔を上げたものの、何かを言いかけて、再度彼女は口を噤んだ。
皆本としても、これ以上何を言ったら良いのか思いつかないため、二人の間に奇妙な沈黙が横たわってしまう。
そんな少々気まずい雰囲気の中、いきなりテレポートで二人が皆本の頭上に現れた。
「ただいまー」
「ごがっ!」
何で普通に出て行ったのに、普通に戻れないのか。
そんな感想と二人の体重で、潰れた皆本が呻き声を上げる。
そして、紫穂を含めた三人は、ダメージで動けない皆本を尻目に、いそいそと彼のベッドに仲良く潜り込んだ。
薫は楽しそうな顔で、葵はしゃあないなぁと言った風で、そして紫穂は微妙に不機嫌そうな顔で、と三者三様ではあるが、みな、皆本を信頼しているのは間違いない。
そうでなければ、誰が好きこのんで他人のベッドへ潜り込もうとするのか。
「僕の寝る場所が無いじゃないかぁ!」
しかも皆本の反対意見は、当然のことながら却下である。
「床で寝ればいーじゃん」
「明日も検査があるんやろ? さっさと眠ったらどや」
このクソガキどもが、との怒りを抑えながら皆本が床で毛布と丸まる。
「まあまあ、明日はいいことあるかもしれないから……明日こそは、きっとね」
そんな紫穂の微妙なフォローが、余計に皆本の涙を誘う。
「……静かに寝るんだぞ」
自分が寝るはずだったベッドを背もたれとしながら、上司らしく、そんなことをのたまう皆本。
そして、彼の言葉へ、はーいと素直に答える三人。
いつもこんなに聞き分けが良かったならなぁ、との思いと、それじゃこいつらじゃないだろ、との複雑な感情が皆本の胸を交互に流れ、どうしたら良いのかと思わず溜息が彼の口から零れてしまう。
そして、最後に小さく紫穂が呟いた、あの言葉が妙に気になって仕方が無い。
『明日こそは、きっとね』
先ほど、何を思って一人忍び込んできたのか、皆本にはまだ紫穂の真意が分からない。
いつも仲良くしている他の二人にさえ秘密としたいのか、ああやって誤魔化してしまったからには、明日以降、彼が問い詰め直しても言おうとはしないだろう。
まだまだ信頼が足りないな、と皆本は思った。
彼をもっと信頼してくれれば、いつかは言ってくれるのだろうか。
あるいは、このままうやむやとなり、日常に流されるまま忘れ去られてしまうのだろうか。
ただ、もっと信頼されなければ、あの予知された悲惨な未来が実現してしまう可能性がある。
そんな悲壮な決意が胸に込み上げてきてならない。
それを押し止めるべく、皆本は、先ほどの紫穂の言葉を小さく口にした。
「明日こそは、きっと――か」
希望を多く含んだ、実に意味深な言葉である。
しかし、何回か口の中で繰り返すと、悲壮な決意が、ふっと和らいでいくようにも感じてくる。
明日こそは、必ずこいつらを天使に導きたい。
そう皆本は誓い直した。
彼が暗澹たる気分で居て、どうしてあの破滅の未来を防ぐことが出来ようか。
『明日こそは、きっとね』
誰か一人だけを特別に感じるはずはないけれど、紫穂のその言葉を素直に信じたい、そう皆本は思って暗闇の中、そっと腕を伸ばした。
何も掴めるはずがないけれど、それを言ったときの紫穂の顔を思い浮かべた瞬間、何かを確かに感じたような気がする。
それは希望か、絶望か。
あるいは悲惨な夢か、それとも薔薇色の幻か。
いずれにせよ、まだ未来は見えない。
願わくば、良いものでありますように――
そう祈り、ほどなくして眠りに就いた皆本の頬へ、そっと紫穂の手が差し伸べられる。
反射的に皆本の体はびくっとしたが、触っているのが『あの』紫穂の手であると認識した後も、それ以上動こうとはしなかった。
心と体は別物であるが、この瞬間、無意識レベルにおいても皆本は彼女を嫌っていないことを証明したのである。
無意識がそうであるのなら、表層意識は、そう、きっと――
すやすやと安らかに眠っている皆本の頬を、紫穂の小さな指が撫でる。
他人の心を読む能力のせいで、自らの心を読んで貰らえない彼女の悲しさは、今はまだ誰も知らない。
他の人へは聞かせられない言葉を心に秘め、明日こそは届いて欲しいと切に願うその手。
今宵、願いを篭めた彼女の手は、いつまでも、いつまでも優しく温もりを皆本へ与え続けていた。
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