何も無い空間。
そう、ここには神無自身以外の、何物も存在しなかった。
そのうち現れるはずのものも、まだ居ない。
そのため、神無は一人で浮かんでいた。
もっとも、そのものが現れたら、こうやって平穏に居られるはずも無いのだが。
ここに入る前に、いつもの戦闘服を纏ったから、身震いはしても、気弱になる必要は無い。
神無は、そうやって自分を律しようとした。
身震いが収まっていくと共に、周囲の光景が、よりハッキリと神無の意識に入りこんでくる。
――本当に、何も無い――
まるで、月世界のような光景。
神無はそれに、慣れていた。
しかし、いつからだろう、それに物足りなくなったのは。
色を求め、形を求め、意味を求めるようになったのは。
その原因は誰が見ても、そう、神無自身でさえもはっきりしていた。
――あの人が来てから――
それを思うと、心音がやけに大きくなる。
反響するものも無く、静かであるはずのそれが、やけにハッキリと聞こえてくる。
――焦ってはダメ――
どこからか沸き出る焦燥感を、神無は無理やりに閉じ込めようとした。
それでなくとも緊張してるのに、こんな気持ちでは、試練に立ち向かえない。
魔物が進入した時の悔しさをバネに、ずっと鍛えてきたのだ。
今回の試練は、きっと切り抜けられる。
あの人に会うためにも、絶対に切りぬけられる。
その思いが、少しずつ身体に染み込んでいく。
普段と変わらぬ態度を。
しかし、集中し、感覚を研ぎ澄ませよう。
そう、彼のように……
……彼?
――彼とは、誰だ?――
試練に向けた意識とは別に、記憶の底から彼のイメージが吹き出してくる。
彼とは、少しスケベで、でも勇敢な少年。
最初に会った時は、私のほうが強かったはずだった。
しかし、闘いにおいては、私よりも彼のほうが役に立っていた。
あの時、彼に感じたのは、単に感謝の念だったはずだ。
彼が居なければ、私は死んでいるところだったのだから。
ずっと、そう思っていた。
私が敵わなかった魔物に、不思議な力で勝利をもぎ取ったのは、彼。
そして、その後も活躍を続けた彼。
彼は、あの無謀とも思える魔族との闘いにも勝利し、そして、平和を掴んでしまった。
半身となるべき、一人の女性の命と引き換えに……
あの時、私も彼と一緒に闘いたかった。
彼の役に立ちたかった。
彼への感謝の気持ちは思慕へと、そして何時の間にか恋愛へと、時間と共に変化していたのだ。
すぐにでも彼を助けに、地球へと降り立ちたかった。
しかし、それは許されなかった。
私には、月世界の守護者と言う役目が与えられていた。
自らの後継者も育てずに、役目を放棄することは、まだ出来る相談では無かったのだ。
また、なまじっかな実力であれに参加することは、自らの死を意味した。
少なくとも、当時の私には、そう思えた。
――自分の実力は、まだ足りない――
それは分かっている。
しかし、どこまで強くなれば、彼の役に立てるのか?
今、彼の傍に居る女性たちも、相当な力がある。
それらを全て凌駕することは、かなり難しいことだ。
そこまでの『力』は、本当に必要なのだろうか?
今まで私は、それを求めていたはずだった。
その結果として、この試練があるはずだった。
これを潜り抜けられれば、私は彼女らより……
――否!――
私の心の中に、強い否定のイメージが沸き起こる。
『彼女ら』に一人で対抗することは、まず不可能に近い。
それに、何で対抗する必要があるのだろう?
この、身勝手な独占欲のせいだろうか?
いくら彼を独占したくても、数時間しか一緒に行動してないような私。
その私を、彼が選んでくれるとは、到底思えないと言うのに。
――それならば、何故に私は、彼の元に行きたいのだ?――
分かっている。
私は、彼の手助けがしたいのだ。
自分を見てくれなくても、彼の役にたてれば、それで良いのだ。
自分が出来る範囲で、力を合わせれば良いのだ。
そもそも、私だけで占有できるような人では無いのだし。
――お笑い種だよね――
この試練を切りぬけられれば、彼の傍に行ける資格が出来る。
そんな馬鹿な話があろうか?
彼はこの試練を知らないし、また、知らせる意味も無い。
これは、単なるけじめに過ぎない。
結果に関わらず、私は、彼の元へと旅立とう。
自分らしく、だからね。
――それは、彼が望んでいるものでもあるのだから――
神無が自嘲では無く、穏やかな笑みを浮かべた時、それは現れた。
全長三メーターほどの、大きな蛇のような化け物。
二桁にもなる複数の目玉で獲物を見つけ、大きな牙で噛み砕くもの。
それは、ビッグイーターと言われる化け物だった。
しかし、何でそんな剣呑な化け物が、ここに現れるのだろう?
それも、彼女の死角にだ。
化け物は、現れると同時に、大口を開けて彼女へと襲い掛かった。
さっきまでの彼女なら、あっという間にやられていただろう。
それほど出現は急で、しかもその後の動きも素早かった。
だが、心を落ち着かせた神無の反応は見事だった。
振り向きざまに、化け物を一刀両断したのだ。
それも、胴体ではなく、頭の部分をだ。
何で分かったのか謎ではあるが、とにかく、彼女には化け物の居場所が分かったのだ。
続いて現れた同様の化け物三体も、同じように一刀両断していく彼女。
それも、相手を見ないで屠っていくのだ。
神業に近いほど、鮮やかな剣さばき。
更に現れた十匹の化け物も、短時間のうちに倒していく。
――続きはどこだ?――
意識のうちに捕らえていた最後の化け物を、屠ると同時に意識を広げて、次の相手を探す。
しかし、いつまでたっても後続は無く、そのうちに、周りの空間が現実世界へと戻るべく、ゆっくりと揺らいでいく。
それは、試練の終了だった。
化け物も実物ではなく、試練用のものだったため、切り裂かれたその死体は、一瞬にして消えた。
観客の居ない闘技場で一人、神無は溜め息を吐いた。
――ああ、終わったのか――
一抹の寂しさは在る。
でも、どうやら私の力は、彼の傍に居れるくらいにはなったようだ。
後継者は、すでに準備している。
後は、彼の元に行くだけだ。
試練の結果に関わらず、旅立とうとは考えたが、やはり、少しでも高められた自分を見て欲しいからな。
神無は、彼の笑顔を思い描いて、笑みを浮かべた。
そんな彼女に、どこからともなく、琵琶の音が聞こえてきた。
激しくは無いが、どこか心を沸き立たせるその曲は、朧がこの日のために作曲したものだった。
これを弾けるのは、朧、ただ一人。
そして、その内容は、旅立ちの曲。そして、別れの曲でもあった。
朧は、まだこの曲が未完成であると言っていた。
しかし、それが何であろうか?
旅立ちも別れも、永遠に完結することは無いのだ。
いや、未完成だからこそ、この雰囲気に相応しいと言うものだ。
神無が彼の元に行くと言うことは、神無と朧の別れをも意味しているのだから。
いつかまた会って、完全版を聞かせてくれる約束なのだから。
――ありがとう――
別れは言わない。
そして、詫びも言わない。
朧はまだ、月世界で動くに動けない重要な位置に居るのだから。
だが、いつかは朧も来るだろう。
今日、私が行くのは、準備がちょっと早かっただけ。
だから、言うべき言葉はただ一つ。
――横島さんの元で、また会いましょう――
私は、宇宙船に乗りこむため、そこを去った。
――華咲く丘で、また会いましょう――
いきなり行ったら、彼も驚いてくれるかな?
私は、愛しい横島さんの顔を思い出しながら、くすりと笑った。
月には植物は居ない。
だから、地球にしか無いもので埋め尽くされたところが、再会の場所に相応しいような気がする。
――そう、華咲く丘で、また会いましょう――
きっと言える、貴方への愛を。
そして、あふれる愛を、貴方たちへと!
その日、一つの流れ星が地球に降った。
そのことは、一部の人しか知らないことではあった。
しかし、それが愛のためであることは、全世界へと伝えても良いだろう。
――華咲く丘で、会うために――
―終―
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