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まどろみの中で、君との夢を見た――
「もう、起きたの?」
そんな軽やかな声で目覚めた朝、僕、皆本光一は焦点の定まっていない視線を目前の女性へ送る。
眼鏡が無いので、もちろんぼんやりとしか姿は見えないけれど、彼女が既にベッドへ腰掛けている状態だということだけは分かった。
なので、すぐに身を起こすと、いつものように彼女の手が伸ばされてくる。
「はい、どうぞ」
「ああ。ありがとう」
ためらいも恥じらいもなく、そっとやり取りされる会話。
既に何回繰り返されただろうか。
僕が起きると、とっくに彼女は起きていて、僕に眼鏡を渡してくれる。
損壊防止のため、これまでベッドへ入る前に眼鏡を外していた僕だったけど、さすがに現在それは出来ないし、したくない。
なので、毎夜眠る寸前に眼鏡を外している――のだろう、たぶん。
僕は外したことを覚えていないけれども、毎日起きたら彼女から眼鏡を渡されてしまうはめになっているのだから、そうなのだろうとしか言いようがない。
おかげで、彼女の可愛い寝顔をここしばらく見ることが出来ていないのが、残念といえば残念だ。
ほんの少々、欲求不満を抱えながら、渡された眼鏡を掛けて改めて彼女、紫穂を僕は見た。
え、彼女の姓はどうなっているのかだって?
……そんなの、言えるわけ無いじゃないか。
恥ずかしいから、この場で言おうとは思えない、とだけ伝えておこう。
それはともかく、今朝も変わらず彼女は綺麗だった。
ボリュームのある髪の毛も、昨夜水分でべたべたになったはずなのに、ふわふわのもこもこで、更に言えばつやつやだ。
化粧でか、恥じらいでか、ほんの少し頬を染めているので、その紅色と相まって眩しく見える。
何故か執拗に着たがる僕のワイシャツで隠されたお肌もピチピチで、さすが若いなぁ、と僕は考えてしまう。
多少は鍛えているから、同年代から見れば僕も十分若いように見えるらしいけれど、さすがに彼女には敵わない。
なにせ、実年齢で十歳も違うからなぁ。
毎晩、二人で体力を限界まで使い果たしてから、互いを抱きしめ合ったままいつの間にか泥のように眠ってしまうのに、彼女のほうが目覚め早いのも、もしかしたらそのせいなのかな?
今朝だって、マニキュアを既に塗り終えているし、ショーツも新品に履き替える時間があったようだし、何より、色っぽい視線を送るだけの満足感と余裕を伝えてくるし……
まだ寝ぼけていたのか、ぼんやりとそんなことを考えていると、不満そうに彼女は眉をひそめて口をとがらせた。
「黙ってたら分かんないわよ、このお寝坊さん。ちゃんと口に出してよね」
思わず、ぷっと吹き出してしまいそうな可愛らしい言葉だ。
でも、彼女のことを少しでも知っていたなら、こんな言葉はありえないと驚愕することだろう。
彼女は高レベルのサイコメトラーなので、しようとさえ思えば、ほとんどの場合思っていることが筒抜けになってしまうんだ。
普通人に対し、自分から言って欲しいなどとおねだりするなんて、夢じゃないかと思うに違いない。
でも僕は、その言葉がさも当然とばかりに、おどけた調子でこう返す。
「黙ってても、君が僕を分かるように、僕も君を分かるから――それでお互い問題ないと思わないか?」
本当に彼女のことを分かるとは言い難い。
こんな関係になってしばらく経つし、その前も同居はしていたけれど、未だに夜ごと新鮮な発見があるんだからね。
まあ、誰にも言えないし、言わないけれど、さ。
「ふーん、そんなこと言うの? 黙っていたいってことは、能力全開で覗き込んでも構わないってことで良いのかしら」
僕の、他人には聞かせられないような中身を含んだ発言を聞き、彼女から発せられたのは、呆れたような、くすくすと笑い出す寸前の声だった。
まあ、そんな態度を取るのは、当然だろう。
なにせ彼女は、僕の思考を読み取る名人なんだから。
僅かな仕草や口調の変化で、たちどころに僕の言わんとすることを読み取ってしまう。
そんな脅しを掛けなくても、能力を使わなくても、十分に僕たちは意思疎通が可能なんだ。
以心伝心って言うと格好良いけどさ、他人から言われると、その、ちょっと恥ずかしいかも。
彼女の質問に対し、僕が否定の言葉を返さなかったので、発言肯定と捉えたのだろう。
彼女は僕に手を伸ばしかけてきたけれども、何故か寸前でためらって、手を戻した。
何か思い付いたことでもあるのかな?
少しの不安と、酷いことにはならないだろうとの安心感が僕を襲う。
読まれたって構わないけどさ!
そんな覚悟を決めながらも、僕の顔は、いつの間にかニヤニヤ顔になっていたに違いない。
紫穂が、いつも意地悪を仕掛ける時の、あのにこやかな顔で僕に告げる。
「それじゃあ今夜は、産地指定のお肉料理にするわね。但馬がいいかしら、それとも米沢、あるいは鹿児島のあたりでどう? もちろん、どれにするかは伝えなくたって分かるわよね」
「ちょっと待ってくれ。今月の家計はやばめなんだけ……」
「分かってくれるんなら……大丈夫よね」
僕の言葉をさえぎって、念を押すかのごとく発せられた彼女の言葉を聴き、僕は一瞬違和感を覚えて考え込んだ。
疑問とも断定とも取れるその言葉の、語尾が微妙に震えていたような気がしたから。
僕を惑わすその笑みも、いつもより不安が濃いような気がしたから。
何気なく投げ出されている彼女の左手では、指が微妙に動き、マニキュアの紫が光を乱反射していたりする。
薬指にある特注指輪も輝いているけれど、いつもほどではない気がする。
その光が、彼女の心を表しているなら、僕は――
今やハッキリとした違和感が、僕を言葉より早く行動に移させた。
ぎゅっと彼女を抱きしめて、彼女が抗議する暇を与えず、耳元で僕は断言する。
「大丈夫。今夜も、そして明日も」
途端に、ハッと息を呑む感触が伝わってきた。
やはり、と僕は思う。
つい見過ごしてしまうそうな普段の仕草に隠されていたのは――日常に潜んだ悪夢だった。
好物である肉料理の話で紛らわせようとしたのだろうけれども、それで隠しきれるなら、僕も彼女も、今こうやって抱き合っていたりはしない。
ふとした瞬間にさえ胸を痛めてしまう事柄は、数少ない心許せる相手、僕とチームメイトと、そして今は離れていった『彼女』のことだけなのだから。
離反の未来を知り得ながら、阻止できなかった悔恨の念。
続く暗黒の未来を知りながら、未だ阻止可能性が見えない焦りと苛立ち。
今夜を迎えられないかもしれない、恐ろしい予感。
そんな、二人の心に沈澱する悪夢を、紫穂は毎晩浄化してくれていた。
自らの肉体と精神で、僕と彼女とを一緒に昇華させてくれていた。
ありがたさと情けなさで、今朝も抱きしめた途端に、僕の瞳が涙で一杯となってしまっている。
偉そうなことを言っておきながら、年下の女性にすがりついている、惨めな中年男性と僕をなじってくれても構わない。
僕にはそれが必要で、彼女もまた僕を必要としてくれるならば、他者から何を言われてもどうってことは無い。
最悪の未来が訪れるまで、現在を、この、相手を思いやる心を明日へと紡ぎ続けられるならば、悪魔がせせら笑っても僕たちは耐えられるだろう。
もっとも、こうして抱きしめ合っていると、僕のほうでは別なことに耐えられなくなってしまうんだけれど……
雰囲気ぶち壊しの言葉なんて、今はいらない。
頭の片隅で浮かんだ邪な思考を押し込んで、僕は紫穂を抱きしめ続けた。
たっぷり一分は経過しただろうか。
彼女の震えも僕の涙もどうにか治まってきたようなので、そろそろ大丈夫かな、と身を離しかけた僕を彼女は逆に引き寄せた。
「ねぇ、皆本さん?」
それから、有無を言わせず僕の耳元へ吐息を掛ける。
「もう起きたからには、大丈夫よね」
えーと、もうお互いに安堵感は伝わっているわけでして、それでも彼女が離さないとなると、このタイミングで彼女が言いたいことは……やっぱり、これだろうなぁ。
我慢してたのに、と苦笑してから、ぺろり、と耳たぶを一舐め。
それだけで、僕は応じられることを伝えた。
安心したからには、応ずることが義務だけれど、権利でもあるんだよね。
だって、彼女のこんな姿は僕しか見られないんだからさ!
彼女のボリュームある胸が、ワイシャツごしでも温もりと鼓動の早さを僕へ伝えてくる。
彼女の新たな震えが、心配ではなく期待へと劇的に変わっていることを僕に感じさせてもいる。
ああ、僕がこれへ応じなければ、他に誰が彼女へ応ぜられるであろうか。
まるで劇の台詞みたいな言葉を胸に秘めて、僕は彼女の背中へ回した腕の力を緩め、正面を向く。
それに応えて、彼女の、はにかんだ微笑みが僕の顔に近付いていく。
そして僕らは、僅かな言葉と仕草で意識を共有させていった。
指を絡め、唇を重ね、明日へ命を伝えようとしていく僕と紫穂。
二人がそういう関係になった、それだけのことで傷つく人が居ることは、十分に知ってはいる。
でも、それでも僕らは、行動せずにはいられない。
僕たちにとって、明日の可能性を信じるためにも、必要なことなのだから。
僕の指と、彼女の指が、未来を求めて絡み合う。
夢見ることを、僕たちは、何があろうとも止められはしないんだ。
どうか、今日が明日へと繋がっていきますように――
深紅の情熱を互いの心身へと刻み込み、僕たちは、今日も朝から見えぬ未来を夢に見ようとし続けていた。
―終―
挿し絵:サスケ
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