2月も半ば。
立春は過ぎてもまだまだ外は木枯らしが吹き、綿菓子をちぎった様な雲がまばらに見える空は高い。
上空にも風が吹いているのか、雲がゆっくりと流れていく。
そんな折、美神事務所ではおキヌとタマモが二人、留守番をしていた。
おキヌがぱたぱたと階段を上がったり下がったりと家事を忙しくこなす。
それとは対照的に、狐姿のタマモがソファーにすやすやと横になり眠っていた。
日差しは弱いが、それが殊更に暖かく感じるのはやはり冬だからだろう。
ぼんやりと足音を聞きながらタマモがふぁぁとあくびをした時、おキヌが声をかけて来た。
「あ、いたいた。タマモちゃんこの後用事ある? 」
「なあに、おキヌちゃん? 」
寝ぼけ眼をうっすら開けるだけで起き上がりもしない狐タマモに、おキヌは少しだけいたずらをしたくなった。
「ね、お買い物に付き合って欲しいんだけど」
「…寒いから嫌」
「大丈夫よ、タマモちゃんは歩く必要も無いから」
「良く分からないけど、ならいいわ」
まだ頭から眠気を追い出せないタマモは、歩かなくていいと言ったおキヌについ返事をしてしまう。
おキヌがちょっと意地悪く笑った事には、気がつかなかった。
「あは、お母さん、あの犬可愛いー」
道ですれ違った親子から、楽しげな声が聞こえる。
ため息と共に周りを見渡せば、皆こちらを見て笑ったり微笑んだりしている。
「…ねぇ、おキヌちゃん。あたし歩きたいんだけど」
「だーめ。カイロが無くなっちゃうじゃない」
春には花が見事に咲くが、今はまだ芽も見えず枝ばかりが寒々しい桜並木をおキヌは買い物袋を抱え、白く色づく息を散らしながら歩いていた。
スーパーで夕食の材料を買い込んで、袋には飛び出す長さのネギやタマモの好物であるあぶらげ、すき焼き用の薄切り肉、卵などが入っている。
そしてその胸元には狐が一匹、コートのボタンの掛け目に細長いあごをちょこんと乗せている。
「カイロ…」
カイロと言われたタマモはなんともやるせない。
生まれ変わってまだ力こそ弱いが、自分は九尾の狐、かつては宮廷を騒がせた大妖である。
それが買い物のついでにカイロ代わりに利用され、あまつさえ犬呼ばわり。
さっきは見知らぬおばあさんに頭を撫でられた。
「タマモちゃん、九つも尻尾があってどれもふさふさしてるから、暖かいだろうなーって前から思ってたんだ」
「そんな事言うの、おキヌちゃんくらいよ」
先ほど生返事をしてしまったのが悔やまれる。
「最初に会った時にぼけぼけしてそうだな、って思ったけどおキヌちゃん案外ちゃっかりしてるわよね」
今日にしても、行き帰りのカイロ代わりにしたかと思えば、特売品の卵を買うその時だけタマモを人間形態に戻して並ばせたりした。
やれる時には一人でやってしまうが、手が必要な時には狐の手も借りるのがおキヌだと最近タマモはわかってきた。
「最初に会った時…。あ、横島さんの家で化かされた時ね」
おキヌはあの時の事を忘れもしない。
大きな除霊で張り切って出かければ罠に掛かったのは弱った子狐一匹で、どうしても手を下せなかった横島がタマモを助けたのが、すべての始まりだった。
こっそり連れ帰った横島のアパートで、警戒してうなり声を上げるタマモと友達になろうとして、差し出した指を噛まれて痛い思いをし、あげくに、幻術で今日の様な寒空の下横島と二人でオリンピックごっこをして、風邪を引いてしまった。
「るーるーるー、なんて指を突き出してくるから、噛んで欲しいのかなって」
タマモが悪びれもせず言うが、おキヌは噛まれた人差し指でちょんと胸元の頭を跳ねる。
「んもう、そんな訳ないでしょ。結構痛かったんだからね、あれ。風邪も引いちゃったし」
「悪かったわよ。だから、あの後薬をあげたでしょ」
横島と二人コタツで暖を取っていた時に、玄関前に置かれていた蓮の葉っぱでくるんだ薬はタマモのお手製だった。
「あの薬、良く効いたわよ」
「そりゃそうよ、あたしの特製だもの。でも、今思えば横島のバカにはいらなかったかも」
「んもう、そんな事言うものじゃないわよ」
「バカはバカでしょ。始終おちゃらけてるし、頭悪いし、セクハラばっかりしてるし。おキヌちゃんがなんであいつに良くするのか、わかんないわ」
タマモの横島へのイメージは総じてこんな物だった。
確かにタマモが来てから横島がいい所を見せているかと言うとそうでもなく、時間が解決してくれるだろうとおキヌは思うのだが、こうはっきり言われると少し不安になる。
いつのまにやら並木道は終わり、足元からはコツコツとブーツがアスファルトを叩く音ばかり聞こえてくる。
「一緒に過ごしていれば、そのうち分かってくるわよ。横島さんなりの良さが」
「分かるのかしらね…」
ふん、と鼻を鳴らすタマモの口調はいつもの様に冷めていて、おキヌはそれが少し悔しい。
強い風が吹きぬけ、思わず首をすくめる。
「ぼけぼけのあたしにだって分かったんだもの、頭のいいタマモちゃんにならきっとわかるわ」
「根拠が無い」
胸元でパタパタと抗議の意思を示すように尻尾を動かすタマモに、おキヌは言った。
「あるわよ。タマモちゃんも私も、横島さんに助けられた者同士だもん」
柔らかく、でもきっぱりと言うおキヌに、タマモは少し考えこんだ。
塗りなおしたガードレールをはさんだすぐ近くを、荷物を積み込んだトラックがフォンと音を立て走り去る。
トラックがビルの陰に隠れ視界から消えたと同じくらいに、タマモがそっと口を開いた。
「助けられた、か。確かにそうかもね…」
タマモの寂しそうな口調は、殺生石に封印された昔を思い出してのものだろうか。
復活してすぐ、追い立てられた事を思い出したのだろうか。
おキヌにはわからないが、ただ一つ言える事があった。
「タマモちゃん、あたしね。お願いしたい事があるんだ」
「突然なに? 」
ピンクの手袋をはめた右手で、おキヌはタマモの頭をゆっくりと撫でる。
金色の毛が手に沿って沈み、またしゃんと立つ。
「覚えておいてほしいんだ、横島さんの事」
「なあに、それ」
「別にね、良い印象とかで無くていいの。ただ、バカでスケベで、頭が悪くて。でも、あけすけで、側にいると落ち着けて…」
「十分褒めてるわよ」
的外れな発言は今に始まった事ではないが、おキヌは何を言いたいのか、そうタマモは思う。
手前の信号が赤になって、おキヌの足が止まる。
目の前を右に左に、様々な車が行きかう。
タマモが視線を上げれば、信号灯の上からカラスが一羽見下ろしていた。
「あたしは300年前の娘で、本当なら今ここにいるはずもないの。ただ、縁があって、横島さんや美神さんに助けられて、良くしてもらって」
タマモは騒音の中、耳を立てておキヌの言葉を聞いていた。
「幽霊として長い時間を過ごした後に、こんな素敵な時間を貰ったの。でも、タマモちゃんは生まれ変わってすぐ横島さんに出会った」
「除霊されかけたけどね」
ふてくされたように呟くタマモに、おキヌは続ける。
「でも、除霊はされなかったでしょ? その騒動も含めて、これから長い時間を生きるタマモちゃんの、いい思い出になると思うんだ」
「…思い出なんて」
いらないわ、言いかけてなぜだろうか口をつぐむ。
以前の自分なら、迷わずに言っていただろうに。
「信号、青になったわよ」
ごまかす様におキヌに告げる。
長くは無い横断歩道を渡り終えると、美神事務所はほど近くにある。
上を見上げると、カラスはもういなかった。
「バカで、スケベな横島さんを覚えていて、ずっと先で話をして、今は違っても、その時にタマモちゃんが笑ってくれたなら」
横島さんだって、きっと嬉しいわ。
タマモは聞き終えて、まぶたを閉じる。
自分が横島の話で笑っているなんて想像が付かなかったが、悪い気分では無かった。
「…じゃあ、覚えていてあげる。どーしよーもないバカでスケベな御先祖がいたって、おキヌちゃんや美神さんの子供達に語りついであげるわ」
「そ、それもちょっと…」
角に立つ、美神事務所が見えてきた。
昭和初期のモダン建築で建てられたそれは重厚なレンガ造りで、ガラス張りのビルの中、日差しを受けて明るく、一際存在感を示している。
「それが嫌なら」
「嫌なら? 」
自分をコートの上から抱えてくれていた手を踏み台にして、ぴょんと胸元から飛び出す。
芝生の上で変化したタマモは、おキヌに向かって右手を突き出し、三本指を立てた。
「今日は、お揚げ三枚出して」
すましたタマモの目が笑っている。
おキヌもおかしそうに笑った。
「はいはい。じゃあ約束ね」
小指を差し出し、タマモの小指と絡めあう。
「約束破ったら、お揚げ三枚出したでしょ、って言うように伝えておくわね」
「はいはい」
「ふふっ」
「あははは」
玄関の前で、もう一度大きな声で笑う。
その笑い声に気付いたのか、人工幽霊一号がおかえりなさいと声をかけて来た。
「ただいま」
「今帰ったわ」
階段をのぼり、二人は扉を開いて事務所に入る。
周りには、様々な人がそれぞれの道を歩いている。
日はいよいよ高く、強くなった日差しが春の訪れを告げるかの様だった。
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